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好奇心の解放

仕事に嫌気が指して逃亡してから早いもので約10ヶ月。
四国へ逃亡したときにはこれが人生の転機なんだろうな、だとか
この先どうなっても構わない、だとか
なるようになるだろう、だとか
調理師になって世界を廻ろう、だとか
その他色々空想まがいのことを考えていたけれど、
結局は会社側の配慮で別部署に1月に異動。それから約7ヶ月。
本当に時間というのはあっという間に過ぎてしまう。
別部署に異動したことが本当に良かったのか今でも疑問である。
私のような人間が会社内に存在することは決して良い影響を与えるとは思わない。
むしろ私のような人間を量産してしまう危険性があるのではないかと常々思うのだが、それは考え過ぎなのであろうか。
個人的には私のような人間を量産して、もう少し日本社会にはのんびり生きて頂きたいという願いがないわけでもないが。


異動してからの7ヶ月間、
3.11の震災時に休日出勤した以外は残業を全くせず定時帰社をさせてもらっている。
かつては残業、休日出勤が当たり前だったのが嘘のようである。
これが同じ会社なのだろうかと思うくらいだ。
残業、休日出勤がなくなったためもちろん給料は激減したが給料の多い少ないは私の人生には大した問題ではないらしい。
収入が減れば、支出を減らせば良いだけである。
本当にどうしようもなくなれば、一人暮らしを辞めてしまえばいいのだ。
親に頼るのか、という意見があるが頼ることの何が悪いのだろうか。
もっと言ってしまえば本当にこの世に悪いことなど、ほんのわずかしか存在しないのではないか。
人間の解釈で様々な事象を強引に悪に仕立て、そして争う。
そんなことを繰り返して何になるのだろうか。


話が脱線したので、話を戻そう。
仕事の内容はおいといて、定時に帰って何をしているかである。
初めのころは社会保険労務士の資格を取ろうと勉強し、TACにも通った。
しかし、どうにもこうにも楽しくない。
そもそも資格を取ろうとした当初は大義名分があったかもしれないが、
時間が経つにつれ一体何のために勉強しているだろう、という状況に陥っていた。
そして勉強しなかった日には自己嫌悪。
このままではダメだと思い、思い切って勉強をやめた。
勇気ある撤退である。
教科書を押し入れに詰め込んで目に見えないように、
講義予定をスケジュールから削除
徹底的にその日から勉強することやめた。
それからというもの実に毎日晴れ晴れしい。
この感覚は会社から逃亡したときに似ている。
そう、私は自らの手で興味のない世界に自分を連れていっていたのである。
だからといって、結局中途半端に終わってしまったことが無駄かというとそうでもない。
今の会社で経験したことは人生においてとても重要であるし、
資格勉強は社会保険に関する知識をなんとなくではあるが理解する手助けになった。
どれも興味はなかったかもしれないが、入門はすることができた。
何かを始める上で一番難しいのは最初の一歩である。
それを経験できれば人生に意味があると私は思う。


最近では本を読むことに凝っている。
小説「深夜特急」は以前から読みたい読みたいと思っており、先週全6巻を読了。
今は小説の前後のエピソードをまとめたものを読んでいる。
この小説を読んだことで海外を近くに感じることができた。
かくいう私は海外に一度も行ったことなく、外国は遠くの話に思えてしょうがなかった。
海外のニュースが流れていても、どこか他人事であった。
しかし、「深夜特急」を読んでからは少しではあるが外国を近くに感じる。
感じているだけで理解は全くしていない。
小説内の一節を引用すると「本当にわかっているのは、わからないということだけかもしれない」
中途半端な知識を得て全てを知ったと考えてしまうことは非常につまらない。
言われてみればその通りなのだが、なぜか人間は物事をカテゴライズして分かりやすくしようとしてしまう。
分かりやすくすることはとても良いことであるし、私も常にわかりやすさは心がけたいと思っている。
しかし、分かりやすくすることで重要なファクターが削られてしまうのであれば
「分かりやすく誤解する」という誤った終着点に向かっているに過ぎない。
その最たる例がテレビではないだろうか。
私はテレビを所持していない。
今年の5月までは持っていたが、テレビのあるニュース映像に嫌悪感を抱き見なくなってしまった。
そのニュースとは震災関連ニュースとユッケ中毒事件である。
詳細は語らないが企業の不祥事をおもしろおかしく編集しているようにしか見えなかった。
ニュースが娯楽になっている。しかも他人の不幸を楽しむ悪趣味な娯楽に。
すべてが間違っているとは言わないけれど、私にはテレビが不要という思いが強くなったのは事実である。
テレビが我が家からなくなったときはラジオを聞いていたが、今ではラジオも聞いていない。
情報源はインターネットだけである。
自分の興味が向いたニュースしか見ないので圧倒的に情報量が少ないが、
果たして一人間がそこまで情報を必要としているのだろうか。
「社会人になったら新聞を読もう」
新聞を読むことが本当に大切なのであろうか?
最近、常識というのは本当に役に立たない代物としか思えない。
アインシュタインが言ったらしい言葉がある。
「常識とは10代までに集めた偏見のコレクションである」
全くもってその通りではないだろうか。


色々書いたが何が言いたいのかと言えば、
特に言いたいことなどない。
ただ書きたかっただけである。
好奇心の解放である。


そうそう、キャンプグッズ一式が揃ったのでツーリングのプランニングを始めようと思う。
今行きたいところは尾瀬
尾瀬の湿原でだらーっとハイキングなんて最高じゃない?
けどテントの建て方忘れたから、山梨あたりで練習しよっと。